自閉症児の父になって…夢見るオジサン「まりたく」という男
「知的障害をともなう、自閉症スペクトラム症です」
2017年8月。私の息子はそう診断されました。
それを機に、私の人生はパッと明るくなりました。
息子に障害があったおかげで、私は、自分の人生に夢をもつことができたのです。
「障害者家族に夢と希望と元気を届ける」
「障害者家族がもっと暮らしやすい世の中をつくる」
これが自分の使命だと。このために生きていこうと。
当ブログは、そんな私の夢を実現するために運営しています。
家族に障害者がいてつらい思いをしているあなたへ。
障害者の家族は、つらくてつらくて大変かもしれないけれど、決して不幸なんかじゃありません。
絶望なんてしないでほしい。
生きる希望をもってほしい。
一度きりの自分の人生を、思いっきり楽しもう。
さあ、最高の人生の幕開けだ。
目次
学生時代~社会人になるまで
夢なんてなかった小学生時代
小学生時代。自身の容姿に決定的な欠陥があり、そのことで周りからよくからかわれていました。本当に嫌でした。
そのことがつらくて、私は顔を下に向けるクセがつきました。そして、人の顔を直視できない人間になりました。これは今でもそのままです。
「人の目を見て話しなさい」
そんなの無理です。だって、自分の顔を見られたくないから。
そんな小学生でした。夢なんて、もっているはずもありませんでした。
自分に自信がなさすぎて、「○○をしたい!××になりたい!」なんて言える子ではなかったのです。
ただただ、暗い暗い小学生でした。
変わろうと思ったけど変われなかった中学時代
中学に入り、「そんな暗い自分におさらばしたい」と思いました。
周囲の環境も大きく変わったので、「変わるなら今しかない!」と思った私は、入学当初、つとめて明るく振る舞いました。
しかし、今まで猛烈に暗かったやつが急に明るく振る舞おうとしても、うまくいくはずがありませんでした。
「なんか変なやつ」とのレッテルを貼られ、気がついたときにはまた、目立たない暗いやつになっていました。
あまりにも目立たない存在であったためか、教師から名前を覚えてもらえないことが多々ありました。それがつらかったですね。
バンドを結成した高校時代
私には何の夢もなかったので、高校も、親に決めてもらった高校に入りました。やはり、クラスでは目立たず暗い存在でいました。
しかしこの頃、そんな私がついに、ちょっとした夢をもつことになります。きっかけは、フジテレビの「HEY HEY HEY」という音楽番組。
GLAYが、「誘惑」という曲を演奏していました。
それを観た私は、「何これ? 死ぬほどかっこいいじゃん!」と思いました。
いつか自分たちの曲をつくって、売れて、
日本武道館で単独ライブをしたい。
そんな夢をもって、活動していました。
あるとき、小さなライブハウスを借りて、ライブを開きました。ベーシストだった私は、GLAYのJIROに憧れて、当時のJIROが着ていたようなピンク色の衣装で舞台に立ちました。
後日、ビデオで自分たちのライブの様子を確認します。ビデオ内で、観客の女性のこんな声が拾われていました。
「あのピンクのやつ、いらなくなーい?」
あのピンクのやつ。私のことです。「いらない」と言われました。ショックでした。
ほどなくしてバンドは解散。「いらないやつ」は再び、夢のない暗い暗い人間になりました。
親の敷いたレールに従って社会人へ
何の夢ももっていなかった私は、「やりたいことなんて何もない」と言って、母親を困らせていました。
だから母親に言われるがままに、専門学校に入りました。
学校ではいつもどおり、暗く目立たない存在でした。
そして就職先が決まり、上京することになりました。夢はまだ、ありませんでした。
結婚して父親に
2010年5月。26歳のときに、今の妻と結婚。
2012年3月。長女が誕生。
2015年4月。長男が誕生。
これだけを見ると、順風満帆な人生を送っているように見えるかもしれません。しかし、やはり依然として、私の人生には夢がありませんでした。
何のために生きているのかが、よくわかっていなかったのです。
「娘や息子のために生きているよ」みたいなことも言っていた気がしますが、本心ではなかったです。なんか、父親として「そう言っておかないといけないよなー」くらいの気持ちでいました。
そんな私の人生に転機が訪れたのは、息子が1歳半になった頃のことでした。
自閉症と診断されるまでの苦難
息子の異変
2016年10月。息子は1歳半になりました。
身体はすくすくと育っていました。しかし息子は、1歳半になっても「ママ」とも「パパ」とも言いませんでした。指差しも一切しません。
1歳半検診。「○○はできますか?」「××はできますか?」のチェック項目。ほぼすべて「できません」でした。
言い知れぬ不安を覚えた私は、インターネットで、ひたすら検索をしていました。
「自閉症 初期症状」
「1歳半 指差ししない」
「知的障害 特徴」
そんなワードを、検索していました。そしてその検索結果を見て、葛藤していました。
息子はおかしい。自閉症かもしれない。
いやそんな。そんなはずはない。
「ハイ、ドーゾ」ってしゃべるじゃないか。
「ママ」って言葉が遅れているだけだ。大丈夫。
男の子だから発達が少し遅いだけだ。
いやでも、あの、手を引っ張る行為。あれはクレーン現象ってやつじゃないか?
いやいやそんな。そんなはずは。
当時の私の中では、「障害=悪」というイメージがあったのだと思います。だから、認めたくなかった。
まさか、自分の子どもが障害児だなんて!
学生時代、みんなから「チショウ」とか「ガイジ」とか言われてバカにされていた知的障害児。
まさか、まさか自分の子どもがそうだなんて!
認めたくなかったのだと思います。
決定打となった「言葉の消失」
2017年1月。私は気がついてしまいました。
息子が、「ハイ、ドーゾ」を言わなくなっていたのです。唯一しゃべっていた意味のある言葉が、消失したのです。
言葉の消失は、重度の自閉症児によく見られる症状であることを、私は知っていました。もう、決定的でした。
妻に話しました。「タク(息子)は自閉症だと思う。病院に相談してみよう」
葛藤の日々
妻は気丈に振る舞っていました。自身の母親(私の義母)に対しても、「タクには障害があると思う」と正直に告げました。
義母からは「なんでそんなひどいことを言うの!」と叱られたと言います。そして妻は、「そんなこと言われたってね。だって、だってタク…なんにもできないんだもん…」
そう言って、泣き崩れました。
私は「障害があることをさっさと認めて楽になろう」と、妻に言い続けました。しかし本音は少し違いました。
「なんでこんなことに…。
自分は今までずっと、目立たない人生を歩んできた。暗い暗い性格で、まったく楽しくない学生生活を過ごしてきた。つらかった。
でも長男が産まれたとき、自分の分身ができたようで、嬉しかった。この子のために生きようって、思えそうだった。あと少しで、本気でそう思えそうだった。
やっと、つらく暗い人生におさらばできると思ったのに、なぜ。なぜこんなことに。なぜこんな、こんなつらい人生を歩まなきゃいけないんだ。もういやだ。」
そんなことを思って、私もよく泣いていました。
どん底へ。絶えることのない夫婦ゲンカ
自閉症児のその育てづらさから、妻の育児ストレスは大いにたまり、妻はいつもイライラしていました。
私は、そうやっていつもイライラしている妻に対してイライラしていました。
そして私と妻は、幾度となく衝突しました。
きっかけは些細なことすぎてもう覚えていません。それくらいどうでもいいことで、何度も何度もケンカしたのです。
基本、私が2日以上の連休のときは、ほぼ確実にケンカになっていました。私たち夫婦は、2日以上一緒にいられないような状況だったのです。だから私は、会社の出勤シフトを、極力連休にならないように調整していました。
妻とはケンカばかり。そして息子には噛みつかれる日々。「これからこの障害のある子と人生を歩んでいかなきゃいけないのに、こんな調子でやっていけるんだろうか?」 そう思うと、絶望的な気分になりました。
「つらい」「もういやだ」「もう無理だ」
真っ暗闇の中、自宅2階のろうかに突っ伏して、1人で嗚咽をあげながら泣いていました。
この頃が、どん底でした。
医師からの診断がくだる
2017年8月。息子は、アセスメント外来という診断を受診しました。
診断の結果を医師から告げられたとき。あのときのことは、今でも鮮明に覚えています。
「知的障害をともなう、自閉症スペクトラム症です。診断の結果としては、あまり軽いものではありません。」
わかっていた。認めているはずだった。それでもどこかで、「大したことはない。軽度の障害だろう」と思っている自分がいた。
しかし結果は重度。私の思いは、無残にも打ち砕かれたのです。
私は淡々と、医師の説明を聞いていました。
その横で妻は、泣いていました。
妻は、医師に対してこう話しました。
「障害があるだろうってことはわかっていたんですけど。まさかこんなに重いとは思っていなかったので…」
言葉につまり、また、泣きだしました。
夢をもつ
プラス思考に切り替える
病院からの帰り道。私は妻に対してこう話しました。
「落ち込んでいたってしょうがない。
プラスに考えるしかないっしょ。
『障害児の育児』って、こんな経験、普通じゃ味わえないよ。
そうだろ? だって人生なんて、一度きりしかないんだぜ?
その一度きりの人生で、普通の人では絶対に味わえないような、
超レアな、貴重な経験ができるんだぜ?
最高ジャン!」
妻に対して言ったその言葉は、私自身に対して言っている言葉でした。
そう考えるしかない。そう考えないとつぶれてしまう。そう思ったのです。
妻は、「パパがそういう考えの父親で良かった」と言ってくれました。
”最高”とはほど遠い現実
「最高ジャン!」とか言ったものの、現実はなかなかおつらいもんです。
レストランで大暴れ。
スーパーで大暴れ。
息子は基本じっとしていられないので、外出するのが本当に大変です。周りからは好奇の目で見られます。
怒りっぽい私は、周りから好奇の目を向けられるたびにこう思っていました。
「そんな目で見るんだったら、オマエらがこの子のこと黙らせてみろよ!できんのかよ!できねぇだろうが!だったら見るな!放っといてくれ!」
公園につれて行っても、普通の遊具で普通に遊ぶことは難しく、傍から見れば奇怪と思われる行動を繰り返します。
親戚の集まりに行けば、「障害のことには触れてはいけない」という空気が流れます。
「障害者は不幸しか生まない」と主張する大量殺人者がいて、その主張をどこか否定できない世の中があります。
障害者は世間から、はれもののように扱われます。
ウチの息子は、ただ必死で生きているだけなのに。
なんだかこれじゃあまるで、ウチの息子、犯罪者みたいじゃんかよ。。。
決意
現代社会では、療育の研究・普及も進んでいます。昔と比べれば、障害者も、その家族もだいぶ暮らしやすい世の中になったようです。
そのおかげもあってか、私と妻は幸いにも、「息子の障害を受容する」ということで意見が一致しました。
障害を受け入れよう。恥ずかしいことなんかじゃない。胸張って生きていこう。
そう考えようと思ったのです。
しかし、そうは思えずに苦しんでいる人たちもいます。「障害」という言葉がもつ負のイメージは、世の中に根強く残っているのです。
だったら。
だったらその世の中を変えてやる。
苦しんでいる家族のことを救いたい。
「障害」という言葉がもつネガティブなイメージを、ポジティブなイメージに変えてやる。
私は、そう決意しました。
そうすることで、自分たち家族も救われると思ったのです。
夢ができた35歳男性
これまで私は、夢のない人生を過ごしてきました。
自分が何のために生きているのか、さっぱりわかりませんでした。
でも、息子が障害者として生まれてきてくれたおかげで、私の人生に夢ができました。
「障害者家族に夢と希望と元気を届ける」
そして、世の障害者家族みんなが夢や希望をもって動き始めたら、世の中の雰囲気すらも変えられるんじゃないかって。
そう思ったのです。
そのために生きようって。
ブログに託す思い
2019年1月。このブログを開設しました。
対人恐怖症の傾向がある私は、人前に立って話をすることは苦手です。だから、ブログを通して訴えていこうと思いました。
家族に障害者がいてつらい思いをしているあなたへ。
障害者の家族は、つらくてつらくて大変かもしれないけれど、決して不幸なんかじゃありません。
絶望なんてしないでほしい。
生きる希望をもってほしい。
一度きりの自分の人生を、思いっきり楽しもう。
さあ、最高の人生の幕開けだ。
このブログを通して、1人でも多くの障害者家族の人生を幸せにできれば。これほどの喜びは他にありません。
それが、私の夢です。
それが私、まりたくです。
【最後までお読みいただき、ありがとうございました!】
このブログをもっと楽しみたいと思った方は、コチラのTwitterをフォローしてくださいね!(切実
読者登録もしてほしいなあ!(欲張り
勢いあまった方は、応援クリックもしてくれると有頂天!